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熊本発 けん爺ちゃんの徒然見聞録
熱帯魚やペット(犬猫)、韓国、飛行機、船、模型、半導体、歴史(日本/世界)、旅行などなどいろんな話題を日記を中心にのんびりアップしていきます(^・囚・^)
プロフィール

けん爺ちゃん

Author:けん爺ちゃん
~序段~          

徒然(つれずれ)
なるままに、日暮らし
電脳箱に向かひて、心に移りゆく
よしなし事を、そこはかとなく
動画にす。

~  ~

初めまして!
熊本にて細々と
生息中のけん爺ちゃんです。

日々の階段から
見える景色を、徒然に書き記して
いこうと思ってます。

AB型の影響なのか、
たま~に歴史マニアな記事に
なっちゃったり、更新のペースが
約10日ごとになるなど、クセが
あるブログですが…

貴方のお気に召したら幸いです
m(_ _)m

コメント大歓迎です☆★
名前とコメントだけで出来ますよ
(^△^)



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2010 GW 瀬戸内トラベリング 後編2 (2/3)
2010 GW 瀬戸内トラベリング 後編1 (1/3) からの続きです。
ちなみに、正解は①②③でしたw


2010年 5月4日(月) 10:14

TS3B1967_20110204004842.jpg
松蔭神社 に到着。
まるで森のような境内は、
GWという事もあり老若男女で賑わっている。

ここは萩出身で
幕末に活躍した 吉田松陰 (よしだ しょういん) を祭っている神社だ。


2010 GW 瀬戸内トラベリング 後編のPV (とある名番組風)

TS3B2050.jpg TS3B1970.jpg TS3B1969_20110206013845.jpg
無料ガイドのおっちゃん、
ダルそうにしてヤル気なさげやのぅw

右側に売店やお土産屋が並び、
左側に怪しげな歴史館がある中、とりあえずまっすぐ奥に進む。

TS3B1972_20110206014524.jpg TS3B1974_20110206014523.jpg
松蔭が処刑前に書いた書。
親思う 心にまさる 親心、か…
さらに奥に進むと、大勢の人垣と共に見えて来たのは…

TS3B1980_20110206024123.jpg TS3B1978.jpg TS3B1975.jpg
TS3B1976.jpg
松下村塾 が。
これがあの有名な、幾多の人材を輩出した塾!?
ボロくて狭くてビックリ。画像下側に映りこんだのは、最初指かと思っていたw

逆に立派な建物だったら
それはそれで粉飾されていそうだから、このままでいいと思う。

ガイドさんが
他の観光客に説明する声を、
シレーっと聞きつつ塾の周囲をうろちょろする。

TS3B1979.jpg TS3B1981.jpg TS3B1982_20110206163408.jpg
TS3B1983.jpg TS3B1985.jpg TS3B1986_20110206163733.jpg 
TS3B1992.jpg

TS3B1987.jpg TS3B1988.jpg TS3B1989.jpg 
TS3B1990.jpg
畳がだいぶ痛んでいる。
最初は8畳1間だったけど、後に塾生達が10畳半1間を増築したらしい。
こっちは増築した10畳半の部屋。

最初は松蔭の叔父、玉木文之進が
開いていた松下村塾を1857 (安政4) 年11月5日、
藩校明倫館の元塾頭だった松蔭が、28歳の時に後を継ぎ
1858 (安政5) 年11月29日までの、たった1年間塾生達と過ごした塾。

TS3B1984.jpg 
武士や町民など身分の隔てなく
塾生を受け入れたのも、当時としては革新的だったようだ。
松陰が塾頭を務めた藩校明倫館は、士分と認められた者しか入学出来ず、
藩士だった木戸孝允は明倫館で松蔭から学び、松下村塾には入っていない。

松下村塾

TS3B2002.jpg TS3B1997.jpg TS3B1998.jpg 
TS3B1994.jpg TS3B1995.jpg TS3B2001.jpg
TS3B2000.jpg
講義室。
もともとあった8畳の部屋。
ここで約30人が松蔭から学んでいた。 (ここ以外も含めると約50人)

在籍者は名簿がないので不明だが、
約300人前後、1日20~30人が来たそうなので
熱心に通った主要な塾生は約30人前後だったのだろう。
萩の乱を起こした明治政府参議、前原一誠などは10日間しか通っていない。

色々見てて思ったけど、バスや説明板に必ず“松蔭先生”と
付けたりしていて、地元の人の気持ちはわかるけど…あまりに賞賛が過ぎるのでは?

罪人の松蔭の塾に行くなんてとんでもないと、
当時の萩の父兄は反対し、松蔭を異端者扱いしてたでしょ?

歴史は全ての事実をまず伝え、
そこから後世に評価してもらうべきでは?と思うので…

では…いきますか。 
マニア向けにさらけ出した略歴前半を!

1830 (文政13) 年8月4日、吉田松陰は
26石取りの下級藩士杉家の次男として生まれ、5歳の時に叔父吉田大助の養子となる。
叔父の玉木文之進の塾 (松下村塾) で山鹿流兵学を学びながらその秀才ぶりを発揮し、
11歳の時、藩主毛利敬親 (もうり たかちか) の前で 「武教全書」 戦法編3戦を堂々と講義し、
藩主はその神童ぶりに感嘆した。

御前講義1
その後、長沼流兵学や西洋陣法、萩野流砲術など
軍事関係の勉学に努めその才能を開花させ、19歳の時に藩校明倫館の師範となり
江戸で思想家 佐久間象山 (さくま しょうざん) に弟子入りする。

22歳の時に脱藩して
肥後細川藩の勤皇志士で、親友の
宮部鼎蔵 (みやべ ていぞう。寺田屋で死亡) らと東北視察旅行に行き
 (藩の通行手形の発行が、出発日までに間に合わず脱藩した)
水戸や東北の鉱山を訪れ、また津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。
この後罪に問われて、士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける事になる。

Perry.jpg 129404062318116228709.jpg q_41.jpg
24歳の時の1854 (安政元) 年3月、
東インド艦隊司令長官ペリー大佐 (国書では最高位の軍人・提督と書いてあるがウソ) が、

   「日本に対しては、恐怖に訴える方が友好に訴えるより多くの利点がある。
         オランダが妨害するかも知れないので、長崎での交渉は避けるべき」

と、日米和親条約締結のため
再び伊豆下田に来日した時、象山がそそのかした事もあり
松蔭は同志の金子重輔 (かねこ しげすけ) と共に24日夜、下田漁民の漁船を盗み、
人生初の舟漕ぎに苦戦しつつ、密かにポーハタン号へ乗船。乗り捨てた漁船は沖に流れていった。

たまに一般市民が
小船で艦隊に近付き、春画を丸めて甲板に投げ込み
それを見る乗組員の反応を見て楽しんだりしていたが、今度は人間が乗り込んで来たのだ。

そして松蔭は、留学目的の密航を訴えるが
その格好と (顔は皮膚病でデコボコ、フンドシもつけずボロ着1枚のみで逃亡犯と間違われた)
幕府との交渉がややこしくなる事を恐れたペリーから拒否され、松蔭達は
地元の庄屋を通じて下田奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷から長州の野山獄へ護送された。

この前にもロシア船に
乗って密航しようとした事があり、知識の吸収という
目的のためなら、脱藩や密航、窃盗などの罪を背負っても構わないという、
一途な人だったようだ。

吉田松陰1
ある意味テロリストの考え方。
脱藩はまだしも、舟を盗まれた漁民のその後の生活など、国事の前では些細な事だったのだろうか。
崇高な目的のためなら、罪を犯してもよいのだろうか。

松蔭の行動を調べると、
結果的にそうなった感じが強く、確信犯的にそうしたわけではないようだ。
この無意識っちゅーところが怖い。

佐久間象山
一途な若者をそそのかした象山もどうかと。
自分ほどの秀才はおらず、子孫をたくさん残さねばと、
尻が大きい安産型の女を愛人として紹介しろと、友人に頼んだ手紙が残っており
その尊大な性格と、女性をモノとして見ている視点がどうも…。

ペリー提督
ペリー日本遠征記では
この2人の若者の正体を後から知り、
拒否はしたがその向学心に燃えた精神と行動が賞賛されている。

そして、護送された野山獄で
前代未聞の出来事が起きるけど、それは略歴後半で。


さらに奥に進んでいく。
旧家の横を通り過ぎて、見えて来たのは…

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最新式自動回転おみくじw
ありがたさをまったく感じないけど、とりあえず引いてみる。

TS3B2009.jpg TS3B2012.jpg TS3B2008.jpg 
情けは人の為ならず、自分の為。
情けはその人のためにならないという
新解釈もあるようだけど、やはり旧解釈のほうが爺ちゃんは好きだ。

TS3B2011.jpg
TS3B2016.jpg

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TS3B2026.jpg TS3B2025.jpg TS3B2024.jpg 
本殿。
まず手を清める。その手で
参拝客に混じってお参り…はせず撮影ばっかりw

左側にも小さい社殿があって、
とにかくツアーの団体客が多かった。 

TS3B2027_20110206210913.jpg TS3B2029.jpg TS3B2030.jpg
左側のほうから引き返す。
人がいないのでのんびり歩けるなぁ。

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TS3B2037.jpg TS3B2039.jpg TS3B2040.jpg
TS3B2041.jpg 
そしてアヤシイ歴史館へ。
うーん、気にはなるけどどうしよう…。

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TS3B2045.jpg TS3B2046.jpg
り、リアル…
何故か山県有朋と伊藤博文が展示してあった。

   (゜д゜) 『おい…どうする?入る?』

                 『何か怖いねぇ…
                     時間もないしやめとくか。これ撮ってくれんや?』

TS3B2047.jpg TS3B2049.jpg TS3B2048.jpg
写真だけ撮って立ち去る。
志を立て、以って万事の源となす、か。
目標を立てて努力する人にとっては、ピッタリの言葉じゃないだろうか。

TS3B2051.jpg TS3B2055.jpg TS3B2054.jpg
TS3B2053_20110206213152.jpg
この切り込みが萩焼の特徴。
これは、萩焼は御用窯 (殿様専用) で庶民は使用出来ないので、
わざと傷モノという事にして使えるように、高台に切り込みを入れたらしい。

さて、次の場所に行くか。










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10:57

松蔭神社からチャリで
5分、 伊藤博文旧宅 に到着。
屋根が茅と瓦ごっちゃになってて、当時からそうだったのか、改築したのかがわからんなぁ。

TS3B2064.jpg TS3B2065_20110206215032.jpg TS3B2067.jpg
TS3B2066.jpg

TS3B2069.jpg TS3B2070.jpg TS3B2071_20110206215306.jpg
TS3B2072.jpg TS3B2073.jpg TS3B2078.jpg
この旧宅は
中には入れないようだ。離れにポツンとある…

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これは何だろう?
わっ!こ、これは当時の…

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男用トイレ!?
隣の戸は開かないけど、もしかして…

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やっぱり…
当時の大きいほうのトイレ。うーん、リアルやのぅ。
すぐ隣には、東京から移設した別邸があったので、続けて見学。

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長州ファイブ
長州藩黙認で出て行った5人の密航留学生。
イギリス留学の費用は、1人1000両。5人で現在の貨幣価値にして
約7,440万円 (1863 (文久2) 年の、1両14,800円で計算)
主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで学んだ。

・伊藤俊輔 (博文。当時23歳) 、後に初代内閣総理大臣。
・井上馨 (いのうえ かおる。当時29歳) 、後に初代外務大臣、農商務大臣、
                            内務大臣、大蔵大臣などを歴任。
・山尾庸三 (やまお ようぞう。当時27歳) 、後に工部卿、東京大学工学部創立、
                            法制局初代長官。日本工学会会長。
・遠藤謹助 (えんどう きんすけ。当時28歳) 、後に造幣局長。
・井上勝 (いのうえ まさる。当時21歳) 、後に鉄道庁長官。


では、マニア向けに!


4185.jpg
1863 (文久2) 年5月12日、出発の時
海軍を勉強したいという発音がネイビー = ナビゲーション = 航海術と
誤解され、航海中に水夫と同様の扱いを受けてしまい、大変な船酔いにも苦しめられながら
彼ら5人は半年後の11月4日、ロンドンに到着。

攘夷実行 20081004083029.jpg
到着後、留学生達は
故郷の長州が攘夷 (じょうい。外国を追い払う事) の実行として
アメリカ商船・ペンブローク号を砲撃し、フランスやオランダの軍艦を次々と
下関で砲撃するなど、盛んに暴れている事を知る。

そして、この一連の過激な行動に対し
英・仏・蘭・米の四カ国連合艦隊が 「下関海峡通航の安全確保」 を
目指して長州藩を直接報復攻撃する、という噂がイギリス中に広がっていた。

dsc00080.jpg
5人の留学生のうち、
井上と伊藤はロンドンの新聞紙上で
この迫り来る長州藩の危機を初めて知り、
留学を中断して日本に帰国し、連合艦隊の行動を阻止しようと考えた。

周囲の人々は
井上と伊藤の行動を止めようとしたが、結局2人は
関係者の静止を振り切り、ロンドン到着わずか5ヶ月で日本へ帰国した。

283cf63a724558a9991056a10d470292.jpg img_991977_24736371_2.jpg
井上と伊藤は帰国後、
藩主をはじめ重役に海外の情勢を説き
攘夷が無謀なことや、開国の必要性を訴えたが
開国派が追放され、藩の方針が既に攘夷一色になっている中、
その主張はまったく理解されず、

   「ホラを吹くにも程がある」

と嘲笑される。
攘夷論者からは命を狙われるハメになり、
2人にとってその状況は、苦難の日々の連続だった。

下関砲撃1 20100504092219.jpg
そして連合軍は下関に上陸。
外国の軍隊が日本本土に上陸するという、
蒙古襲来以来約600年ぶりとなった戦いでは、
連合軍は一瞬で上陸地点の村を占拠し、放火や大砲を持ち帰るなど
さんざん暴れ回り、長州藩に賠償金を要求した。 

そして、ロンドンに残った3人は、
偶然に市内で薩摩藩の密航留学生15名と出会い、
  (薩摩藩が主導して送り出していた。
   藩の主導という点で長州藩と事情が異なる。
    この留学生の中には、後の初代文部大臣となる
     森有礼 (もり ありのり。当時は森金之丞) や、明治政府の
      駐仏公使となる鮫島尚信 (さめじま なおのぶ。当時は鮫島誠蔵) といった面々がいた)


薩摩藩英国留学生
親交を深めた。
薩摩側も、まさか自分達よりも先に
長州藩士がイギリスに留学していたとは、と仰天したらしい。
 
遠い異国の地で出会った日本人、
さぞ嬉しかった事だろう。祖国での対立など
本人達には関係がなかった (当時、長州と薩摩は敵対関係中)

山尾庸三が薩摩藩士を誘い
一緒に大学のスポーツ大会を観戦したり、また
ロンドン塔やベッドフォードの製鉄所、造船場や武器庫などを一緒に見学に行った。

製鉄所
ある時、山尾が造船学を学ぶために
スコットランドのグラスゴーに行こうとした際にも、
学費に窮して旅費の工面が出来なかった山尾に対し、薩摩藩の
留学生達が1ポンドずつカンパしあい、計15ポンドのお金を旅費として山尾に貸している。

彼らは 「同じ日本人じゃないか」 という
共通の概念で、遠い異国の地で共に苦労して助け合っていたのである。 


話がだいぶそれたけど
さっそく伊藤博文別邸へ。

TS3B2083.jpg TS3B2084.jpg TS3B2139.jpg
TS3B2085.jpg TS3B2086.jpg
壁には明治時代に
活躍した人たちの逸話が書いてある説明書きがあり、
マニアックな内容もあって面白い。

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岩倉使節団 TS3B2092.jpg TS3B2093.jpg
高杉晋作が博文と名付けた話や、
岩倉欧米使節団として一緒に参加していた木戸孝允が、
贅沢三昧の伊藤博文と仲が悪くなっていた話など、初耳でつい長々と読んでしまう。

15両 = 約4万円。 8両 = 約2万円。 (幕末の1両2,604円で計算)

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TS3B2109.jpg
うーん…この容貌で
兵庫県知事って言われてもなぁw
英語が達者だったらしい。

ここではとても
出せないであろう、伊藤博文の裏話をこっそり。


長州藩士として活躍し、
明治政府の要人となってからも睡眠4時間で
激務をこなし、明治天皇から 「伊藤の健康は病的だ」 と言われた博文。
それは仕事以外でも発揮された。

自ら、1000人の女性と
○ッ○○したと豪語し、鹿鳴館のパーティーでは
美人の伯爵夫人を木陰に引っ張り込み、神奈川県大磯の別荘では芸者2人を呼んで3○…

Erwin_Baelz.jpg
医師のベルツ博士は、
伊藤の事を 「酒、女、タバコを好み、しかもそれを隠そうとしない」 と書き残している。

明治天皇も伊藤の
あまりの性欲の旺盛さに呆れ、慎むよう忠告している。
どうも色を好む英雄だったみたいで…。 


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鏡天井。
このデカさで1枚板!?
樹齢千年の吉野杉らしいけど、無節無傷の稀に見る名板らしい。
もとはタテ10.8m、横2.02mもあったようで…買うにしても、何千万の世界だろうなぁ。

屋久島で大きな杉を見てきたけど、
曲がったり節があったりで、こんなキレイな板にはならないと思う。
今の日本では、こんな大きな1枚板はもう2度と手に入らないだろう。

TS3B2115.jpg TS3B2117.jpg TS3B2118_20110207015438.jpg
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手入れが行き届いているのか、
作った時代が新しいからなのか今まで見てきた
旧宅とは違う、何となく高級そうな室内を歩き2階へ行く。

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TS3B2125.jpg TS3B2124.jpg TS3B2131.jpg
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風通しの良さに
つい寝っ転がってしまう。
ふぅ…そろそろ次の場所へ行ききますか!

TS3B2141.jpg TS3B2142_20110207021029.jpg













11:28

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茅が新しい玉木文之進旧宅の
そばから、それは始まっていた。

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じゃじゃん!
何て急な坂…でも、行くしかない!

               『これ…登れんやろ~
                   ホントに行くとや?やめんや?』

   (;゜д゜) 『えへぇ~!?ここまで来たとばい?!
          もう2度と来んかも知れんとばい!行こっ!』

渋るC男を説得し
勢いをつけて登り出したのであった。

TS3B2151.jpg

   (;゜д。) 『あひーっ!!』


2010 GW 瀬戸内トラベリング 後編3 (3/3) に続く。




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テーマ:歴史雑学 - ジャンル:学問・文化・芸術


この記事に対するコメント

おいらもブログ始めようかと思ってます。
簡単なやつね
表と裏を作ろうかと思います(笑)
【2011/02/07 10:00】 URL | T・N #- [ 編集]

上り坂はまさに心臓破り
萩、松下村塾、趣きありでよかった 

チャリの爆走よくとれてんな?ww

【2011/02/07 21:10】 URL | C男 #- [ 編集]


>T・Nさん

マジっすか~何か濃いのが出来そうやねw
作ったらぜひ教えて下さいな。どっちかっちゅーたら裏が見たいw
画像が欲しい時は、パソコンにあるT・Nさんの裏画像を提供するよ?w
【2011/02/12 00:34】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


>C男さん

いい所だったね~萩。
歴史溢れる街だったね。
3月の沖縄でも歴史巡りしますか!
まずは大田司令官の旧海軍司令部跡を!

でしょ?w
【2011/02/12 00:37】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


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