熊本発 けん爺ちゃんの徒然見聞録
熱帯魚やペット(犬猫)、韓国、飛行機、船、模型、半導体、歴史(日本/世界)、旅行などなどいろんな話題を日記を中心にのんびりアップしていきます(^・囚・^)
プロフィール

けん爺ちゃん

Author:けん爺ちゃん
~序段~          

徒然(つれずれ)
なるままに、日暮らし
電脳箱に向かひて、心に移りゆく
よしなし事を、そこはかとなく
動画にす。

~  ~

初めまして!
熊本にて細々と
生息中のけん爺ちゃんです。

日々の階段から
見える景色を、徒然に書き記して
いこうと思ってます。

AB型の影響なのか、
たま~に歴史マニアな記事に
なっちゃったり、更新のペースが
約10日ごとになるなど、クセが
あるブログですが…

貴方のお気に召したら幸いです
m(_ _)m

コメント大歓迎です☆★
名前とコメントだけで出来ますよ
(^△^)



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元寇(蒙古襲来)  ~さまよえる戦士たち~ 後編(3部作)
中編 からの続き)


※「高画質を視聴」 や、HQの 「高画質に切替え」 はヘンなリンクに飛ぶので無視して下さい。

季長は
鎌倉へ直談判に行く決意をした。
周囲は仰天し、季長の主張に対して反対する。

        しゆえの御房 『何をバカな!?
                   そのような事をしても無駄に
                     決まっておろう!旅費はどうするのじゃ!?』

   季長 『馬と鞍 (くら。騎乗する際に下に敷く馬具) を売ります』

            親族 『馬鹿者!
                  命より大切な馬を売るだと!?
                   次の戦が起こったら何も出来ぬでは
                     ないか!?乱心もいい加減にせい!!』

竹崎季長 馬 鞍 売り飛ばし

             母 『季長…
                 私はお前が無事に戻って来ただけで
                  満足じゃ。周りが何を言おうと気にする
                    事はない。鎌倉に行くでない。お願いじゃ…』

   季長 『母上…
         私は、このまま黙って座する訳には
           いかないのです。この訴えが通らなかったら、
             出家 (しゅっけ。坊さんになる事) してここには帰りませぬ!』



1275年(建治元年) 7月4日 06:00

暁4

    季長 『弥二郎、又二郎、行くぞ!
          何を後ろばかり見ておる!』

                   弥二郎 『殿…誰も
                          見送りに来ておりませぬ…』

               又二郎 『やはり上京は
                      おやめになったほうが…』

    季長 『一度決めた事だ!
          これは自分を証明する
           もう一つの戦いでもある。さぁ行くぞ!』

こうして、
餞別はおろか見送りさえなく、一門と決別状態で
季長ら3人は、鎌倉へ向けて66泊67日の長い旅に出たのである…。

関門海峡
途中、 
長門国 (ながと。現在の山口県西半分) の
守護 (しゅご。県知事) である三井季成 (みつい すえなり)
から馬や旅費などの多大な援助を受け、また下関市内では市内中の
遊女を集めて、季長のための盛大な壮行会を開いてもらったりもしている。

季成は、
季長が元服 (げんぷく。昔の成人儀式) した際の
烏帽子親 (えぼしおや。元服の時になってもらう親以外の親) だった。

孤独な道中での意外な歓待。
季長はきっと落涙した事だろう。

そして、この季成ルートで
時の恩賞奉行 (おんしょうぶぎょう。恩賞配分を決める役職) である
安達泰盛 (あだち やすもり)(44) との面会が実現する事になるのである。

01-07.jpg
9月10日、鎌倉到着。
旅の途中、中間1人が逃げ出してしまったが
どちらだったのかは季長は書き残していない) どうにか辿り着いた。

蒙古から使者が来ているようだ。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・ コラム⑤ 断固たる決意 -・-・-・-・-・-・-・-・--・

10月4日

フビライは、文永の役後
杜世忠 (とせいちゅう。モンゴル人)(34) を正使とする使者5人を
日本へ送り込んだ。目的は、ビビッているであろう日本に再び朝貢を迫る事。

・正使    杜世忠
・副使    何文著    (38歳・漢人)
・計議官  撤都魯丁   (32歳・ウイグル人)
・書状官  果       (32歳・ウイグル人)
・通訳    徐賛      (32歳・高麗人)

全員30代。
彼らは3月に元を出発し、5月19日に
大宰府を避け長門国室津 (現在の山口県豊浦町) に上陸した。

彼らが博多に
上陸しなかったのは、住民の逆恨みを
避けるのと、上陸適地を探る目的があったからだ。

しかし、彼らはすぐに捕縛され
鎌倉へ護送後、竜之口刑場 (現在の神奈川県
藤沢市片瀬にある龍口寺
) で10月4日、全員処刑された。

趙良弼 (ちょうりょうひつ。前編 参照
のようなスパイ活動は、2度とさせぬぞ…!

使者杜世忠処刑
杜世忠の
辞世の句 (じせいのく。死ぬ間際に詠む歌

   ~出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機~

(現代語訳)
   ~家を出る時、妻子は寒さを凌ぐ衣服を自分に贈ってくれ、西行(日本)から
     いつ帰って来るのか、出世など考えずに無事に帰って欲しいと言っていたのに…~


日本との交渉に
首尾よく成功すれば、故郷に残した妻子が暖かく
迎えてくれるハズだったのに、遠い異国の地で処刑されてしまうとは…。





1279年(弘安2年)、
懸案の南宋攻略を果たしたフビライは
使者の杜世忠が帰って来ない事に首を傾げつつ、再び使者を送り出した。

正使、周福。副使、欒忠。
日本人の渡宋僧侶を案内役にして7月に大宰府に
到着したが、到着直後に日本人僧侶も含め5人全員が斬首された。

石塁 (後述) を見た以上、
生かして帰す訳にはいかなかったのだ。

無題58
2ヵ月後、
かろうじて逃げ帰った水夫から
過去に送り出した使者がことごとく殺された事を知ったフビライは激怒し、
翌1280年には侵攻準備のため、征東行省せいとうこうしょう。日本征服担当機関) を設置した。

長年の征服の夢と
憎悪が激しく入り混じり、燃え上がるフビライ。

もう、誰も止められない。

許さん!
許さんぞ!!ムシけ 日本人ども…!





鎌倉幕府は
再襲来に対して備え始めていた。

九州の御家人を中心に
異国警固番役 (いこくけいごばんやく) を課し、博多沿岸の防備強化の
ために高さ2~3m、総延長約20キロに及ぶ石塁せきるい。元寇防塁) を築かせる。

元寇防塁4 101055_0001.jpg 無題60 
元寇防塁3
石塁の構築は
各御家人の所領に基づいて
割り振られた。所領の水田約10アールにつき
約3センチ、約1ヘクタールにつき約30センチの構築が命じられた。

●異国警固番の警固分担

   春(3ヶ月)   筑前国 (ちくぜん。福岡県北西部) 、肥後国 (ひご。熊本県
   夏(3ヶ月)   肥前国 (ひぜん。佐賀県と長崎県
             豊前国 (ぶぜん。福岡県東部と大分県北部
   秋(3ヶ月)   豊後国 (ぶんご。大分県の大部分) 、筑後国 (ちくご。福岡県南部
   冬(3ヶ月)   日向国 (ひゅうが。宮崎県) 、大隈国 (おおすみ。鹿児島県東部と奄美諸島
             薩摩国 (さつま。鹿児島県西部

壱岐、対馬は
独力での対処を求められた。

例えば、
春なら筑前国、肥後国の
全御家人が3ヶ月を3番制に分けて従事した。

つまり、御家人は
1ヶ月博多に駐在し沿岸を警固する事になるのだ。
経済的負担は御公事なのでもちろん自腹。後に、体制が変化し各国の番所が固定化していった。

そして、 
中国に渡る交易船がもたらす情報や
倭寇に依頼して1280年6月に高麗各地に対し
威力偵察 (一時的に攻めて敵の戦闘能力を見定める行為) させた
結果などから、1281年(弘安4年)5月には再び襲来があると判断した。

蘭渓道隆
幕府のブレーンである
蘭渓道隆 (らんけいどうりゅう。
日本に禅宗を伝えた宋のお坊さん
)(68) から、

  『宋が蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略されてしまった』

と聞かされ、
また蘭渓道隆の後継者、
無学祖元 (むがくそげん)(55) からは

                   『莫煩悩』

ばくぼんのう。あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさいと言う意味

と諭された北条時宗 (31) は、
交渉の道を絶って徹底的に戦う決意を示したのだ。

来るなら来いっ…!

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・--・


10月30日

      泰盛 『はい次の方、どうぞー。
            あぁ、お主か。話は聞いておるぞ。
              肥後から遠い所をよくぞ参られた』

恩賞奉行、
安達泰盛と季長の面会が
甘縄にある泰盛の屋形で始まった。 

当時、鎌倉には
文永の役での恩賞に不満を持つ御家人や
狭い土地や小さな屋敷など、今までの戦の恩賞に比べて見劣りするものだった

恩賞すらなかった御家人が
恩賞の請求や訴訟などで、連日のように幕府に殺到していた。

ツテを頼っても2ヶ月待ち。
もしそれすらもなければ、面会など到底出来なかっただろう。

神社

      僧侶、神官 『ヒソヒソ…また御家人が
                訴えに来ておるぞ。蒙古を撃退出来たは、
                 我らが神仏に祈った事による神風のおかげ。
                   あやつらは、逃げ惑い怯えておっただけではないか…』

鎌倉では、
上京した御家人らに
対して冷めた見方をする者もいた。

   季長 『泰盛殿!
         私は率いる部下が少数ながら
          先懸 (さきがけ。中編 参照) こそ合戦の
           忠との思いから、敵陣へ真っ先に突撃したのです!
             この書下 (かきくだし。司令官発行の戦功証明書) を見て下さい!』

竹崎季長 安達泰盛に直談判2
        安達泰盛                                    竹崎季長

        泰盛 『うむ…
              しかし、此度の戦は “討死”、“分捕り (敵の首を)” を
               戦功と考えておるので、そなたの “先懸” は恩賞の対象にはならぬ』

   季長 『では私は何のために
         大軍の中へ突っ込んだというのですか!?
          この訴訟に疑問があるなら、景資 (かげすけ。中編 参照) 殿へ
           御教書 (みぎょうしょ。鎌倉幕府発行の正式文書) を出して確認して下さい!』

…泰盛は考えた。
いずれ蒙古の再来は必至。
その時、迎え撃つ主力となるのは、この
奇異の強者 (きいのこわもの) のような、純朴で勇敢な九州の御家人たちだ。

…来年3月に
予定している朝鮮出兵計画
 (鎌倉幕府による攻勢防御計画。恩賞がない事による苦肉の策でもある。
   御家人たちの反対にあい未遂に終わったが、倭寇に合浦など高麗各地を襲わせた


においても、
この者たちの協力が欠かせない。

   季長 『もし、私の申し立てに
         間違いがありましたら…
          首をはねられても、異議はございません』

…ならば、
将来起こるであろう
未曾有の国難に対して、彼らを奉公精神で
事にあたらせるために今ここですべき事は、ただひとつ…!






そして、
この訴えから1ヵ月後、季長は
泰盛から肥後国海東郷 (現在の熊本県下益城郡
小川町海東地区
) の地頭職の正式任命と、黒栗毛の馬と鞍を賜った。
 (個人的には、海東郷とは
   蒙古襲来絵詞の文面や故郷へ帰還後すぐ (2日後) に海東郷へ移り住んでいる
     事などから、季長が訴訟で失いつつある所領 (前編 参照) の事だったと思っています。 

KE2128LJ.jpg
  季長は、海東郷の領主になったのは
   甲佐大明神の神意であると蒙古襲来絵詞・詞16で
    不自然なまでに強調していて、わざわざ強調しなければ
     ならないような状況、つまり恩賞として賜った海東郷の支配に
      動揺をもたらすような何らかの状況が生じていて、甲佐大明神の
       神意を借りてまで海東郷の正統な領主である事を主張しないといけないほどの
        ゴタゴタ (訴訟) が起きていた所領だったと思われます)


恩賞2

   季長 『このご恩、決して忘れません!』

              泰盛 『再び蒙古が攻めて来たら、頼むぞ!』

       季長 『はいっ!』

自分を証明する
もう一つの戦いにも勝利した季長は、
翌1276年(建治2年)1月28日、無事に故郷へ帰り着いた。

季長は幸運なほうだった。
手柄を立てたにも関わらず、恩賞の対象にならなかった御家人は数多く
いったん発表した文永の役の戦功再調査が、1277(建治3年)8月まで続いている。

1280年(弘安3年)12月8日付(旧暦)の
幕府の御教書では、九州の守護に対し戦功の正確な評価を命じている。
守護の独断と偏見で、戦功から洩れた御家人がいた事を窺わせるものだ。

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さらに、同年の御教書で
所務相論 (民事訴訟) や、検断沙汰 (刑事訴訟) を禁止した。
国家存亡の危機、いざこざを言っている場合ではないという訳だ。
いわば、幕府の裁判権の放棄。

問題を当事者任せにした
この措置は、逆にゴタゴタになりそうで
御家人たちが国難に向け一致団結したかは疑問が残る。




1279年(弘安2年) 3月19日 昼過ぎ

無題74
涯山
がんざん。現在の中国
香港沖合いの島
) 沖の船上…。

                祥興帝 『ねぇ、秀夫。
                       講義はもうおしまいなのー?』

     秀夫 『えぇ、陛下… 
           全てが…終わりました。
             私と一緒に、この海の底にある竜宮の宮殿へ参りましょう…』

祥興帝
南宋最後の皇帝、
祥興帝 (しょうこうてい)(7) を抱き抱え、
家臣の陸 秀夫 (りく しゅうふ)(43) は、海に飛び込んでいった。

こうして、南宋は遂に
滅亡してしまったのだ。南宋の莫大な
経済力と海軍力が、フビライ(65)の手中に収まった。

     フビライ 『次は日本じゃ!』


1280年(弘安3年) 5月

フビライ臨席のもと
各方面軍首脳会議が開かれ、
高麗方面と南中国方面からの2方面同時出撃
現地 (壱岐) で合流後、日本に再侵攻するという壮大な作戦が決定した。

高麗は
フビライに要望を出す。

   『…国内の逆賊鎮圧で
      手が回らず、倭寇も来襲するし日本の逆侵攻に
       備えて各地に城を築いたので、財政が逼迫しています。
        男はことごとく (元に) 徴収されるので労働力も枯渇し、再度
          日本を攻める能力はありません。どうか今回は免除して下さい』

再び燃え出した
フビライの日本征服欲の前には、
そんな要請など聞き入れられるハズもなかった。

過酷な軍備調達命令が、再び高麗に下される。

それは征服した
南宋に対しても発せられた。

12463844980001.jpg
南宋の旧臣、
范文虎 (はんぶんこ) ら旧南宋兵約10万人
兵船約3500隻うち新造船約600隻) 、3ヶ月分の兵糧39万石を用意させる。

総司令官 阿刺罕 (あらかん。モンゴル人)。
副司令官 阿塔海 (あたかい。モンゴル人)(47) 、范文虎。

いつ反乱を起こすかわからない
政権運営上の不安要因たる旧南宋兵らを、中国から
追い出すかの如くフビライは農業用の鋤 (すき) 、 鍬 (くわ) 、種もみを持たせ、言った。

   『日本を占領し、現地で自活せよ』

鋤3 鍬
鋤                鍬

彼らは
故郷を追いやられ、日本での
屯田 (とんでん。普段は農業に従事しながら辺境の
守りにつく事
) 生活にしか活路を見出せない行き場を無くした集団だったのだ。

   兵士 『南宋には金で雇われただけなのに…
         何で日本に行かないといけないんだ?』

士気があがるハズもない。
彼らは江南軍と呼ばれた。


11月
高麗の忠烈王、
フビライに日本侵攻準備完了を報告。

軍2万6989人 (うち水夫1万7029人) 、
兵船約900隻、3ヶ月分の兵糧11万石。司令官 金方慶 (きん ほうけい)(69)。

その他、総司令官忻都 (きんと。モンゴル人) 、
洪茶丘 (こう さきゅう。高麗を憎む高麗人)(37) が
率いるモンゴル、漢、女真連合軍1万5000人など、計4万1989人

彼らは東路軍と呼ばれた。


1281年(弘安4年) 5月14日

東路軍が合浦に集結し、
忠烈王の閲覧のもと出陣式を行なう。
そして大宰府に向けて5月29日、出撃。

uvs100217-0011.jpg
江南軍とは
7月9日に壱岐で合流予定だった。

総計、軍14万1989人
兵船約4400隻
古今未曾有の大艦隊。

img_40206_1793336_1.jpg
食糧を積めるだけ
積み込み、今後の調達は
現地での略奪で賄う予定の大集団。

糧 (かて) は敵に寄ればよい…。

 (食糧の補給が出来ないまま
   船底の船倉が消費によって空洞化した事で、
    船のトップヘビー化 (船の重心が上方に移り、転覆
      しやすくなる
) が進み、後の惨劇を生む要因になったと思われます



6月16日、6月17日

出港後、
巨済島 (韓国南岸の島。コジェド) で
風待ちをしつつ日本側の守備状況に関する情報収集を
していた東路軍は、軍を2手に分けて16日に対馬、17日には壱岐へと迫る。

それぞれ降伏を促すが、
徹底抗戦の構えを見せる両島民。

文永の役の時よりも
無慈悲で残酷な殺戮が行われた。

壱岐で討死した少弐資時


6月25日

京都に
蒙古再襲来の報が届く。
京都中が騒然とし、国家鎮守の祈祷が続く。

さらに
7月8日には長門侵攻の情報が
伝わり、この話に尾ひれがついて

「九州既にうち落され、長門に押し寄せたり」   (八幡愚童記)

と、今にも京都に向かって
攻め込んで来るかのような錯覚を人々に与えた。

京都
人々は
ただ神仏に祈祷する他に成す術もなく、

「畏怖のほか他に無し」   (勘仲記)

という状況だった。
もう、神に祈るしかない。


6月29日

東路軍、志賀島及び博多に来襲。
しかし、沿岸に石塁が築かれていたため上陸出来ず
一部が長門国に侵攻したが、ここでも防備が固く上陸を阻まれた。

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上陸して
橋頭堡 (きょうとうほ。上陸地点に確保する拠点) を確保出来ない状態。
それは、大軍を維持するのに必要な食糧の調達が出来ない事を意味していた。 

uvs100217-009.jpg uvs100217-011.jpg
そして、
沖合いに撤退して江南軍の到着を待とうとする東路軍に、
御家人たちの小船が夜中こっそり近付き、船に乗り込み切り込んでいく。

奇襲による接近戦を仕掛けたのだ。

元船襲撃 無題75
筑後国の御家人、
草野経永 (くさの つねなが) が始めたこの奇襲戦法を見て、
他の御家人も次々に小船を繰り出したため、あちこちで激しい攻防戦が展開された。

     「異国警固のために本国を立し時、10年が内に蒙古寄せ来たれば
                     異国へ渡て合戦すべきと…(略)…今その時を得たり」

   ~伊予国 (いよ。愛媛県) 御家人、河野通有 (こうの みちあり)(31) の起請文より~


文永の役から7年、
再び巡って来たこの絶好のチャンスに
さらなる恩賞を狙う者、前回取りっぱぐれた恩賞を夢見る者…。

この日を待ちに待っていた
約4万人の御家人たちが、ただ先を争って我先に突っ込んで行ったのだ。
その中には、何と83歳のお爺ちゃん (少弐資能。しょうに すけよし) もいた。

生の松原
裕福な御家人は
高齢や病気を理由に出陣を渋る者も多かったので、
突っ込んで行くのは切羽詰ったり、困窮している御家人が主体となる。

故郷で吉報を待つ、一族の生活が掛かっているのだ。

恩賞を得て、
収入 (=米=土地) が増えれば、郎党を
多く抱える事も、近隣の豪族を支配して領地を増やす事も可能なのだ。

沖の船には、恩賞となる
首がわんさと溢れているではないか!

黄金の国ジパングにやって来た “宝船”。

Untitled9.jpg 1024PX~3
こうして、 
目の色を変え肉弾戦で襲い掛かって来る御家人と、
慣れない船上生活で弱る体力、衛生環境の悪化による疫病の
流行もあり (病死者数約3000) 、東路軍はボロボロになっていった。

7月12日

   忻都、洪茶丘 『江南軍は来ないのではないかっ?!
              予定 (7/9着) をとっくに過ぎておるのに…
                それに我が軍はもうボロボロだ!撤退しかないっ!』

             金方慶 『まだ1ヶ月分の食糧がある!
                    江南軍は必ず来る!待つのじゃっ!』

金方慶
東路軍が
苦戦している最中のこの日、
総司令官阿刺罕の急病や、大軍による
集結の遅れなどから予定が延びに延びていた江南軍が、
やっと寧波 (にんぽー。現在の上海近くにあった港町) を出港した。

uvs100217-001.jpg
予定地の壱岐ではなく平戸へ向かう。
日本の漂流船乗組員から、平戸が防備も甘く
上陸に適しているとの情報を得て、計画を変更したためだ。

出発の遅れと
計画の変更を告げる
先遣隊が東路軍のもとへ急いだ。

7月19日

7日後のこの日、
船腹を防虫用の塗装で
白一色にした江南軍が遂に平戸に到着。

弘安の役侵攻図2 


7月25日

連絡を受け平戸に
後退して来た東路軍と、江南軍が合流する。
士気が幾分回復した東路軍と、武器よりも農具が多く
戦意のない江南軍の温度差が目立つ中、新たに作戦を練り直す。


8月19日

筑前国沖合いにある
鷹島 (たかしま) に東路、江南連合軍が襲来。
待ち構えていた御家人たちとの、壮絶な戦いが再び繰り広げられたのである。

鷹島
そして、
そこには季長もいた。


8月20日 雨

      季長 『我らが船はまだかっ!?』


hamabe.jpg
季長(35)は焦っていた。
目の前の海戦を、浜辺でただ傍観しているだけ。

同じ肥後国の菊池武房(36)、
相良頼俊 (さがら よりとし) (推定70歳代) 、大矢野種保 (おおやの
たねやす) 、詫磨氏、大野氏らの船は既に到着し、沖で戦っているというのに…。

    季長 『うぬぅ~、
          船さえあれば…どうにかして船を…
            どうやって船に…!あ、あれだっ!!』

御家人の船
沖の大船に
関東からの使者を送り届ける小船を見つけ、
自分達もその大船に用があると嘘を言い乗り込む。

大船に到着後、
使者と一緒にさりげなーく乗り込んだ。

          安達泰盛の部下 『そちらの方は?』

   季長 『せ、拙者は
         肥後国豊福荘の竹崎季長と申す者。
           どうか、我らをこの船に乗せて頂きたい』

           安達泰盛の部下 『この船は安達泰盛様の
                        船だから、そなたらを勝手に
                          乗せる訳にはいかぬ。降りられよ!』

無下に
追い返される季長一行。
諦めない季長は小船を別の大船に漕ぎ寄せ、叫んだ。

    季長 『お~い!
          この船には安達泰盛殿が乗っておられる!
            我らをそちらの船に移らせてもらいたい!』

無題66
何とか乗り込んだが、
こんなしょうもない嘘はすぐバレた。

      季長 『いや…実話、その…』

                大矢野種保 『おぬし、騙しおったな!?』

   季長 『そこを何とかっ!
         わし1人でいいから乗せてくれーっ! m(;_ _)m
          このままでは故郷に帰れないんじゃ!
           頼むーっ!!!』

               種保 『う、うーむ…、
                     仕方がない。ただし
                       おぬし1人だけだぞ』

こうして
無理矢理に同郷の
大矢野種保の船に便乗した。

                 種保 『おや?
                       兜はいかがされた?』

1011-3.jpg

    季長 『あっ!!
         浜辺に忘れてしまった…
          仕方がない、すねあてを代わりにかぶろう』

すねあて

                   種保 『そ、それではあまりにも…
                         私の家来の兜をどうぞ。さぁ』

    季長 『いえ、
          兜を借りたために貴方の家来が死んだら
            貴方にも、その人の家族にも申し訳ない』

季長3

                 種保 『ふむ…
                       立派な心掛け!』

戦は格好ではない!

季長元船襲撃 mouko20tatakai1.jpg
気迫でやるのだーっ!!

季長は1人で
指揮官クラス2人を含む20余の
連合軍将兵を倒し、首を持ち帰って来た。

そして、前線司令官の
安達 盛宗 (あだち もりむね。泰盛の子) から、
1番の手柄を立てたと直々に認められたのである。

安達 盛宗3

        盛宗 『何度も味方をダマして
              船を乗り継ぎ、敵船に飛び込んだとは…
                あっはっは!その知恵と勇気、あっぱれあっぱれ!』

この後、
恩賞として故郷近くの甲佐神社の領地を拝領し、
左兵衛尉 (さひょうえのじょう。朝廷の位で左兵衛府の
判官。家柄が良く弓馬に巧みな者のみ任命
)に任ぜられた。

8月22日 夜 超大型台風 博多へ

京都でも
激しい風雨に見舞わるほどの、
非常に大きな台風が博多湾を襲った。

連合軍の兵船のうち、
手抜きの急造船、オンボロの旧式船、
船倉が空になりトップヘビー状態の船などはことごとく
破損、転覆、沈没していく。海岸の岩場に激突し、座礁したり砕け散る船も続出した。

台風襲来2
2日間に渡って
吹き荒れた暴風雨。海に投げ出された
兵士たちのうち、数千人がどうにか鷹島へと泳ぎ着いた。

海岸には多数の溺死者が
打ち上げられ、周辺の海上には
辛うじて沈没を免れた船があちこちに漂っている。

   「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」   (八幡愚童訓)
   

   「大風にて江南軍皆溺死す。
     屍は潮汐にしたがって浦に入り、
      浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」   (高麗史)


阿塔海、范文虎ら指揮官たちは
健在な船を見つけ出してそれに乗り込み、
さ迷う兵士たちを見捨てて逃亡してしまった。

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置き去りにされた兵士たちは
相談し、張百戸を主師に選び、生き延びる道を模索する。

壊れた船を修理する者や、
木を伐採し帰りの船を造る者、あるいは鷹島に土塁を築いて
徹底抗戦の構えを見せる者、自暴自棄になって戦場へ突っ込んで逝く者…。

8月27日

御家人たちが
鷹島や、周辺地域に残っていた
連合軍に向かって怒涛の如く雪崩れ込む。

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1週間続いた戦いの中で、
約1千人以上の連合軍兵士を討ち取り、降伏した約2~3万人を捕虜とした。

捕虜のうち唐人 (南宋人) は殺さず奴隷に。
それ以外の蒙古、高麗、漢人は1人残らず全員処刑した。

昔から交易があり
馴染み深かった南宋人はともかく、高圧的に
朝貢を迫った蒙古人と、それに追随した高麗人
などは許せなかったのだ。





●弘安の役での連合軍の被害

 ・江南軍 
      約10万人中、約9万2500人 (戦死、病死、溺死、捕虜合計) 
       損耗率 約93%
        送還捕虜3人 (旧南宋人の兵士である于閶、莫青、呉万五の3人)
         (フビライへの警告として。
           この3人の証言により指揮官の逃亡が発覚、
            激怒したフビライは范文虎を処刑し、阿塔海を左遷した


 ・東路軍 
      2万6989人中、7592人 (同上)
       損耗率 約28% 
        (東路軍は文永の役の
          教訓から、船体構造の強化や
           文永の役より約3倍も多い水夫 (素早く出来る
             操船・危機回避
) 、暴風雨の兆候が見えた段階で
               素早く撤退するなどの、何らかの対策を施していたと思われます


世界最強の
モンゴル軍団は、東方の島国
日本を征服する事がまたもや出来なかった。

理由としては、

 ・強制的に従軍させた
   異民族の連合軍であり、戦意も乏しく、また
     指令系統に統一を欠くなど意思の疎通が十分でなかった。

 ・突貫手抜き工事で建造された船は脆く、
   しかも長期間の海上滞在で船底が軽くなり転覆しやすい状態だった。

 ・海上の戦いに不慣れで、日本周辺の風土や気候についての知識が乏しかった。

 ・日本の地形では
   大平原を縦横無尽に疾駆する
    得意の騎馬戦法が出来ず、高湿度の日本の気候で
     さらに軽装になってしまい、かつ不慣れな接近戦に持ち込まれ、
       機関銃の銃身すら真っ二つにする切れ味鋭い日本刀の餌食になってしまった。

 ・武器、食糧などの補給がなかった。


などなど…。







フビライ・ハーン
フビライは、それでも諦めなかった。
3度目の正直と言わんばかりの、日本再々侵攻の準備を命じる。
 
日本の逆侵攻を恐れ、
厳しい財政状況ながら朝鮮半島沿岸の防衛を
強化していた高麗の忠烈王も、1282年8月、自ら兵船
約150隻を造り、フビライに再々侵攻の決断を促してきた

1283年には、
解散していた征東行省を再度開設。日本逆侵攻に
備えて寧波、上海などに軍を派遣し防備に当たらせる防衛策を
取りつつ、攻勢策として約40万の軍勢と、2ヶ月半分の兵糧
100万石を集め、大小約3000隻の兵船を建造し、この年9月の侵攻を予定した。

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しかし、家臣の
兵を休めるようにとの忠告を聞き、
勃発した内乱への対処などで再々侵攻は延期となった。

1285年には女真族に兵船を造らせ、
合浦で高麗軍と合流させ大宰府に出港寸前だったが、
ベトナム (いったん占領に成功するも、ジャングル戦に持ち込まれ敗退)、
インドネシア (日本侵攻と同じく暴風雨により敗退) 侵攻など課題が山積のままでは
成功は望めないとの家臣の進言で、またもや計画を取り止め
遂に日本の征服を果たす事なく、1294年2月25日
フビライは80歳の生涯を閉じた。

季長4
そして、
季長は良き領主、正当な領主たらんと
海東郷領民の民意を得る事を心掛け、年末などは、

     『無事に年が越せるように、
       1人当たり2升 (3・6kg) の米を与えなさい』

と気遣い、また18ヶ条からなる
事細かな約束事を領民と交わすなど、領地の安定経営に力を注いだ。

そして、
47歳の時に貴重な歴史資料である絵巻の
蒙古襲来絵詞 (もうこしゅうらいえことば) を
現在の価格で約2~3億円という、巨額の費用を投じて製作した。
 (当時、絵巻の製作は今でいう映画製作のように、巨額の資金が必要だった。 
    現在残っている絵詞は、散逸などでかなりの欠落があると考えられている


69歳で出家して 
沙弥法喜 (しゃみほうき) と名乗り、1325年(正中3年)、故郷で
フビライと同じ80年の生涯を閉じた。現在、菩提寺である塔福寺にその墓はある。









…弘安の役後も
なかなか恩賞にありつけず、遺族への
補償もなく、戦後も警固のための出費が続く
御家人の生活は、次第に苦しくなっていく一方だった。

幕府は
苦し紛れの策として、

 ・借金で手放した領地であっても、
   20年を越えない領地はもとの持ち主 (御家人) に返さなければならない。

 ・御家人所領の売買及び質入れの禁止。

 ・越訴 (おっそ。裁判で敗訴した者の再審請求) の停止。


という
徳政令 (とくせいれい) を出した。
徳政令には、借金の棒引きなども含まれている。

土地を売ってしまった
御家人は多かったので、多くの御家人が
徳政令のおかげで一時的には助かったが、根本的に生活が豊かになった訳ではない。

御家人
これ以降、御家人が
生活難から土地を売ろうとしてもそれは禁止され、
また誰も買おうとはしなかった。また返せという法律が出たらたまらないからだ。

借金の棒引きを恐れて
借上 (かしあげ。高利貸し) すらも金を貸してくれない。

まさに “その場しのぎ”の政策。


こうして、
日本国史上最初にして最大の国難である
元寇を見事撃退した御家人たちは、その働きにも関わらず
路頭に迷い、明るい希望さえ見えない人生をさ迷っていくのであった…。







Untitled2224.jpg
…完。
まさかこんなに長くなるとは…(;´`)
読んで下さった貴方、お疲れ様でした!そして、ありがとうございました m(_ _)m
歴史モノは、いつかまた書くと思います。
次回は何を書こうかな…。

こんなブログもありかな?と
思えた方は、ポチッとしてやって下さい m(_ _)m

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


この記事に対するコメント

最後まで読ませてもらいました。

久々に読み応えのある長編モノでした。
海東郡の詳細なんかは現地調査したんでしょう?
でなければ,あそこまでは知りえないよね。

迫真の元寇記でした。
【2010/02/18 00:27】 URL | インヤン #- [ 編集]


有難うございました。

竹崎季長は恵まれていましたね。元寇後、大抵の御家人は路頭に迷うことになりましたから。
元軍の襲来は、ただでさえ分割相続で体力が弱っていた御家人に止めを刺すことになってしまいました。それは同時に鎌倉幕府の命運にも大きな悪影響を与えてしまったわけです。
しかし、元寇の際にたまたま武家政権だったからこそ、我が国が今でも存続しているわけですし、歴史の因縁というものは本当に不思議です。一筋縄ではいきませんよね。

追伸:今日(18日)から東京講演の更新をはじめました。忌憚なきご意見を賜れば幸いです。
【2010/02/18 20:01】 URL | 黒田裕樹 #qvcTopkk [ 編集]


>インヤンさん

ご満足頂いたようで…
ありがとうございますm(_ _)m

塔福寺の方からは
『学校の先生なんでしょ?』 と言われ
思わず 『はい』 と言ってしまいました(笑)

季長に関する
詳細を追記してますので、どうぞ☆

次回のリクエスト等
ありましたら、遠慮なくお伝え下さい。
【2010/02/20 11:44】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


>黒田裕樹さん

いえいえ!
こちらこそこんな長文に付き合わせてしまって…
恐縮です(;- -)

本当にそうですよね。
元寇後の御家人の生活は、ますます困窮していったようで
そりゃ悪党にもなりたくなりますよね…。
季長は数億円を掛けて絵巻を製作出来るほどの
経済力を幸運にも得る事が出来た、本っ当に稀なケースだと思います。

確かに先生の仰る通りだと思います。
もし、元寇が貴族政権時代の平安期や、
貴族化し中国との交易で利益をあげていた平家政権時に来襲したら、
彼らはフビライの要求を受け入れていたと思います。

武家政権の名誉や威信、
勇気と誠を重んじる気風や、降伏を拒否する
強い決断と指導力があったからこそ、この結果が得られたのではないかと
思います。
…甘んじて冊封を受けた足利義満の時でも、危なかったかも(;^^)

武田信玄と信長の対比が興味深いです。
東京講座、お疲れ様でしたm(_ _)m
さっそく拝読させて頂きますね☆
【2010/02/20 12:07】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


こんばんは(^-^)/
口八丁で味方の船に乗り込んだりすねあてを兜の代わりにかぶったり、人間味溢れる季長を主人公にして話を進めるところがけん爺ちゃんさんのセンスの良さであり歴史を熟知する証ですね v('-')o
自分なんか徳政令は某ゲームの「徳政令カード」で知っててもいきさつはぜんぜん知りませんでしたから w

“その場しのぎ”の政策。
昔も今も変わってないんですね(笑)
【2010/02/27 00:21】 URL | ぽてち #iw7OdkEg [ 編集]


>ぽてちさん

ありがとうございます!m(_ _)m
季長は、決してスマートではないものの
一生懸命と言うか、ガムシャラさに親近感が湧く
好きな歴史人物の1人です。

某ゲームが気になりますw
すべてがチャラになるアイテムですか?w

変わってないですねぇ(;^^)
歴史の常なんでしょうか。
昔の話でも現代に通じる何かがありますよね。
これから機会があれば
もっと歴史モノを増やしていきたいと思います。

その時はまたお付き合い下さい(;^ワ^)
【2010/02/28 21:34】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


先月ちょっと忙しくてなかなかブログ廻りできなく久々やってきたら、なんと3部構成になっていたとは!!w

いや~けん爺ちゃんさんお疲れ様でした(  ̄▽ ̄)ノ
歴史が全くと言っていいほど疎い私なので季長って歴史上の人物で知っている人にいなかったです(o ̄∇ ̄o)
代表的な信長とか家康とかはなんとなくわかりますが。。。
それもゲームとかで知っていたりw

文章でもセリフが書いてあったりしましたけど、セリフで書いてあると頭に入りやすくわかりやすかったです☆

しかし季長さん、なんと運がいいというかなんというか・・・
でもなんか憎めない奴という感じですよねw

徳政令ワタシもしってますよ(  ̄ー ̄)ノ
某ゲームでw

そのゲームの最新版は歴史上の人物がたーくさんでてきますよ☆
【2010/03/02 10:41】 URL | ほっぺがアンパンマン #- [ 編集]


こんばんは(^-^)/

>某ゲーム
(ほぼ)毎年、年末になると新作が出てくるボードゲームです。
やっぱり正月の風物”すごろく”を意識してるのかな?

持ち金がマイナスのときに「徳政令カード」を使うと持ち金が”0”(つまり借金が帳消し)になります。
最新作はWiiだったかな?

ちなみに、ぽてさら家にはWiiがないので旧作で遊んでます(笑)
【2010/03/05 00:34】 URL | ぽてち #iw7OdkEg [ 編集]


>ほっぺがアンパンマンさん

はい、まさかの
3部作になっちゃいました。

理解されやすい伝え方と、
歴史を身近に感じ、親近感を持ってもらう手法として
今回のようなセリフ付きの記事に仕上げましたけど…
ほっぺがアンパンマンさんにそう言って頂けると、書いてよかったなぁとすごく嬉しいです。
読むのに時間が掛かったでしょうに…(p_;)

でた、某ゲームw
もしかして、銀魂!?ww
【2010/03/12 04:12】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


>ぽてちさん

ぽてちさんのヒントでピント来ました!
もしかして、人生ゲームですかっ!?

借金が帳消し…
まさしく徳政令(笑)
相手のお金を0に出来ると、なおいっそうゲームが盛り上がりそうですね(笑)
最新作はWiiですか~自分も当分縁がなさそうです(;^^ゞ
ファミコンで出ないかなw
【2010/03/12 04:16】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


長編、一気に楽しく読ませて戴きました。
尖閣の事例に応用出来そうな歴史です。この歴史に習えば、尖閣を巡り日中が争えば、悪戯に出費がかさみ、双方が困窮し、結局勝者はいないのかも知れませんね。国家予算は生産性が高い事に投資し、投資した以上に利益を出せば、国も民も富む、と言う事でしょう。「防衛は国を護る為に必要ですが、利益を出すのは武器を販売する米国で、防衛自体に生産性は無い」と言う事実を、世論が右傾化する今こそ考えないといけません。
【2013/01/20 18:41】 URL | キンクマエモン #- [ 編集]


>キンクマエモンさん

初めまして。
こんな長編を読んで頂き、
本当にありがとうございました。

確かに、昨今の尖閣や竹島問題に
見られる領土問題では、軍事的な圧を持って
相手方を牽制するような側面や、一部の勢力が見られますね。

有事に備える事は大事ですが、
それを錦の御旗に際限無き軍拡競争に突き進んでしまうと、
仰るように国民生活は富む事も、生産性が向上する事もなく疲弊していくと思います。

戦前の国家予算に対する
陸海軍軍事費の割合の推移でも、それは推測出来ます。

日露戦争時の
82.4%(1905年)は仕方がないとしても、
日中戦争勃発の1937年から終戦の1945年まで、
その割合は69%~89%にも及び、今の北朝鮮のような状態です。

時代の背景も
絡んでくるので一概には言えませんが、
仮にその予算を民政分野に回せていたら、あるいは
北朝鮮がミサイルや核開発を中断して、その資金を生産性が高い
分野に投資すれば、民が富むか貧するか、結果はおのずと出てくると私も思います。

元寇は約730年前の
遠い昔の歴史の話ですが、現代にも
通じる普遍的な本質があると思いますので、
キンクマエモンさんのような方によって、この記事が
現代の問題に当てはめて考えて頂くキッカケになり、温故知新を
皆様に実践して頂く機会になれば、作者として望外の喜びに存じます。

歴史モノについては
新たな記事を書こうと構想中です。
なかなか書く時間がなく、構想が長引いていますが…(汗)

お時間があれば、また遊びにいらして下さい。
お待ちしています。
【2013/01/26 22:42】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


これはおもしろかった。1時間ほど読んでしまいました
【2014/10/03 02:17】 URL | とおりすがり #EBUSheBA [ 編集]


>とおりすがりさん

お褒めの言葉、感謝感激です。

貴重な時間を費やして読んで頂き、ありがとうございました!
時間があれば、もっと歴史の話を書きたいのですが…。
【2015/02/09 07:01】 URL | けん爺ちゃん #- [ 編集]


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